「何のために勉強するのか?」誰でも一度は考えたことがあるのでは?そもそも「教育」が目指すものとは何か。学校、塾、家庭の三者がそれぞれできることとは?日本の教育の課題や未来を教育コンサルタントの木下晴弘さんに伺いました。
目次
人に「教える」仕事の苦労と魅力とは??
教室長:今回お話を伺うのは、関西の大手進学塾で10年以上トップ講師としてご活躍されたご経験から、現在は全国の塾や学校などの教育機関を中心にセミナー・講演を行われている教育コンサルタントの木下晴弘さんです。
母:木下さんは塾の経営にもかかわられたことがあるとお聞きしています。まさに「教育のプロ」とも言える方にお話を伺えるということで、保護者としてとても楽しみにしてまいりました。どうぞ、よろしくお願いします。
木下晴弘さん:こちらこそ、よろしくお願いします。私が経験したのは、教育に関わるさまざまな立場の中の塾の講師というたった1つの立場ですが、その経験を通して得た考え方や生徒指導のノウハウを教育に携わるみなさんにお伝えできればと活動しています。今回は中学生の保護者の方とお話をさせていただくということで、少しでもみなさんの子育てのヒントになれば幸いです。
教室長:木下さんは大学生のアルバイトとして塾講師を始められて、大学を卒業後はいったん銀行に就職されたのに再び塾講師の職に戻られたそうですが、まずはそのあたりの経緯を教えていただけますか?
木下晴弘さん:わかりました。実は意外かもしれませんが、私は大学受験で3浪していまして。
母:えっ?塾の講師の方なら学生時代から成績優秀というイメージでした。意外です!
木下晴弘さん:お恥ずかしい話なんですが、荒れた高校時代で、ろくに学校に行かない状態だったので成績はボロボロ。特に化学が赤点で、レポートを提出してなんとか高校を卒業したというくらいでした。予備校に入っても最初の1週間はとりあえずすべての授業を受けてみましたが、まあこれがおもしろくない。まったくと言っていいほど勉強していませんから、内容がわかりませんし、当然おもしろいはずありませんよね。そんな私が唯一おもしろいと感じた授業が、北山先生という方の化学の授業だったんです。
母:私も化学はニガテでした…。化学がおもしろく感じるって、北山先生はどんな先生だったのですか?
木下晴弘さん:ちょっと強面の男の先生なんですが、ガラッと扉を開けて教室に入ってくると、机にテキストをバンッと置いて「化学のお勉強をしましょうかぁ」とこうです。「君ら酸素を見たことあるかぁ?」「おい!そこの酸素!…と言っても、酸素は見えない」というふうに続きます。その最初の5分でもう「この授業おもしろい!」と心をつかまれてしまったんですね。そこから1年間、他の授業は週休5日という状態だったんですが、土曜日の北山先生の化学だけはおもしろくて仕方なくって毎回受けました。そうしてその年の共通一次試験、他の教科は全滅。化学だけは満点を取りました。
母:満点ですか!北山先生の授業のすばらしさがわかるエピソードですね。
木下晴弘さん:2年目の共通一次試験も満点、3年目は1ヵ所ミスがありましたが98点です。「化学ってこんなにおもしろかったんだ」と心の底から感じました。「僕もこんな教え方をしてみたい」。それが私の「教える」ということに対する原点です。
母:大学時代はアルバイトとして塾講師をされて、いったん銀行に就職されたのに、再び塾講師に戻られたそうですね。塾講師という仕事にはどんな魅力があるのでしょうか?
木下晴弘さん:銀行の仕事は世の中に必要な大事な仕事だということは頭ではわかっていましたが、お金を数える毎日は私には味気なかった。塾の講師の仕事では年に1回、合格実績という形で自分のやってきたことが数字になって現れます。合格発表の日は生徒の数だけ感動があり、「ああ、この仕事やっていてよかった!」と心から思えるんです。お札はたたいてもほこりしか出ませんけど、生徒たちのハートをたたいたら感動があり、涙も笑いも出る。そういったところに私はおもしろさを感じています。
教室長:木下さんが行われている学校の先生や塾の講師向けのセミナーも人気だとお聞きしていますが、「教える」ことを仕事にされている方にアドバイスをいただけませんか?
木下晴弘さん:塾の講師や学校の先生、もちろん幼稚園の教員も含めて、「教える」ということを生業にされている方に、絶対にお伝えしておきたいのは、人に教える仕事というのは自分の未熟さが一気に露見しますよ、ということです。どんな仕事でも、仕事で直面する課題、それは人間関係だったり、仕事上のミスだったりと形を変えて現れますが、ぜんぶ自分の未熟さが形になって現れるものです。人に教える仕事では、この課題の現れ方が急激です。自分の未熟さを一気に見せつけられるというのは、もう本当につらい。だから離職率も高い。その代わり、課題を乗り越えたときの達成感、人間としての成熟度合は群を抜いていると思います。苦しさの後には大きな喜びがあることを覚えておいていただきたいですね。
「教育」は何のため?その本質とは?
木下晴弘さん:みなさんは「そもそも教育とは何のためにするのか」と考えてみたことはありますか?
母:難しいですね。将来、子どもが安定した生活を送るため、でしょうか。
木下晴弘さん:それも1つの考え方だと思います。一言で表すとしたら「幸せになるため」ではないでしょうか。人生が貧しく細っていくのを実現するために教育をしようなんて、誰も思っていないはずです。人生を豊かに幸せにするために教育はある。
母:なるほど!でも、幸せな人生や豊かな人生というのは、その人の価値観によって考え方がいろいろあるでしょうね。
木下晴弘さん:そのとおりですね。多様な価値観のなかでも、おそらく多くの国で幸せな人生を歩んだ人と言われるのは「他人を幸せにした人」だと私は思います。世界の偉人と言われるような人、たとえば、松下幸之助やマザー・テレサの人生と比べて歴史上数多く存在した暴君たちの人生をどう思いますか?
母:他人のために尽くした人と、自分の利益を追った人という感じですね。確かに前者のほうが幸せな人生かもしれません。
木下晴弘さん:では、他人を幸せにするという考え方を持てないと、どうなるか。一流大学で身につけた高い能力で毒ガスをつくった人もいるわけです。教育によって身につけた知識やスキルをどう使うかということが人生を左右する。
母:本当にそのとおりですね。
木下晴弘さん:知識やスキルを「包丁」と置き換えて考えてみてください。包丁は食材を切っておいしい料理をつくり人を幸せにできる。とても便利なものです。でも人を刺すこともできるんです。知識やスキルを教えると同時に、その使い方も教えることがとても大切です。
「教育」における学校と塾の役割?
木下晴弘さん:では、「包丁」の使い方をどこで教えるか。誰が教えてもいいのですが、ただ小学校以降は子どもがいちばん長く過ごすのは学校ですよね。だから「包丁」の使い方は学校で教えるのが効率的だと私は思います。つまり学校は、勉強して得た知識やスキルを、他人の幸せのために使うことが自分の幸せにつながるということを徹底的に教える場であってほしい。もちろんある程度のサイズの「包丁」を持たせてあげる、つまり基本的な知識やスキルを教える場であることも必要だと思います。
教室長:やはり教育の現場というとまず学校ということになると思いますが、それでは塾についてはいかがでしょうか。
木下晴弘さん:学校で得た「包丁」でもっとまわりを幸せにするためには、もっと大きくしたり、切れ味をよくしたりする必要がある。その役目は塾が担うしかないでしょう。というのは、いまの日本の学校の仕組みは、その多くが習熟度によるクラス編成ではありません。あらゆる習熟度の生徒を1クラスにまとめてその中間程度に授業の水準を合わせるものです。この仕組みでは落ちこぼれは少なくなりますが、突出した者も出にくくなる。
教室長:教育の平準化と言われる仕組みですね。
木下晴弘さん:はい。これは欧米の列強大国が植民地政策の一貫で行ったもので、植民地の国民を扱いやすくする目的があったと、私は考えています。最近になってようやく日本でもスーパーサイエンスハイスクールといった取り組みも始まっていますが、現状では平準的な教育=学校教育という観念は打ち破られていません。
母:学校で得たものを大きく切れ味よく磨くのが塾の役割、ということですか?
木下晴弘さん:理恵さんのおっしゃるとおりです。
教室長:学習塾には大きく分けて、集団で指導するタイプの塾と個別指導の塾がありますが、それぞれの役割に違いはあると思われますか?
木下晴弘さん:そうですね、その違いは集団指導と個別指導の違いとも言えると思いますが…。いまの中学校や高校でよくある5段階の成績は相対評価ですよね。
母:高校受験や大学受験の偏差値も相対評価ですね。
木下晴弘さん:まさに偏差値教育というのは集団指導において、他人との比較の中で決まる相対評価なんです。
母:テストに先生が「よくがんばりました」と書いてくださるのは、絶対評価と言えますか?
木下晴弘さん:そうです、それが絶対評価です。現在、学校では相対評価がほとんどです。しかし世の中のすべての物事は表裏一体で、男と女、光と影のように互いに補完しあっていて、それらを切り離してしまうと双方とも成り立たなくなってしまう。光は闇の中でこそ輝くものであって、光だけしか存在しない世界ではそれを光と認識できませんよね?つまり相対と絶対が補完しあうのが自然な形だというのが私の考え方です。相対評価で切磋琢磨することも生徒さんの成長につながりますし、生徒さん自身が成長しているかどうかは絶対評価でなければ測れません。両方のよいところを組み合わせるという発想ができたら素晴らしいですよね。
教室長:相対評価と絶対評価を組み合わせて評価するべきということでしょうか。
木下晴弘さん:そうです。学校教育における評価は、相対評価と絶対評価の絶妙なバランスというところに行きつくのがベストだと思っています。絶対評価では、競う相手はクラスメイトではなく、昨日の自分や去年の自分です。「あなたは去年よりも今年、昨日よりも今日、ちゃんと成長していますか?」これを問いかけることができるのは個別指導しかない。そこに個別指導の大きな役割があると私は思います。
親はどのように関わるべき?
家庭で教えられることとは?木下家の子育て?
母:ここまでは学校と塾の役割について伺いましたけれども、では家庭の役割とはどんなことでしょうか??
木下晴弘さん:さきほど他人を幸せにすることが自分の幸せにつながるというお話をしましたね。ところが人間は自分にないものは与えられないんです。人に幸せを与えられるのは自分が幸福感を持っている人間だけです。では、幸福感とは何か。一言で言うと「自信」です。
母:自信を持つというのは、自分の長所を誇りに思うことですよね。
木下晴弘さん:実は僕もずっとはき違えていたんですが、自信とは他人よりも自分が秀でていることを言うとほとんどの方が思っています。もちろん定義はいろいろあってよいのですが、幸福感につながる自信とは「自分は自分でいい」と思えることです。
母:「ありのままの自分でいい」とも言えますね。子どもにそういう自信を持たせるにはどうすればいいのですか?
木下晴弘さん:もし他人より秀でていることを自信だと定義すると、自分より優れた人が出てきたとき、それは簡単に打ち砕かれてしまいます。でも「自分は自分でいいんだ」と思えている人間の自信は他人には打ち砕けません。「自分は自分でいい」と思える心、これを与えることができるのは親しかいない。家庭教育の根幹はそこにあります。
母:具体的にはどのように教えればよいのでしょうか?
木下晴弘さん:幼少のころから「あなたはあなたでいいんだよ」「あなたの存在そのものを愛しているよ」と伝え続けることです。ハイハイができたから、テストでよい点をとったからというのではなく、お子さんのありのままを愛しているというメッセージを小さいころから伝えることは、家庭でしかできないと私は思います。
母:たしかに赤ん坊のころは存在そのものを大切に思っていましたが、成長するにつれてそれを伝える機会はなくなってしまったかもしれません。最近は「勉強しなさい」「片付けはいつやるの」と注意するばかりで、「大好きよ」と伝えてあげていないかも…。子どものことは愛していますが、やっぱり勉強ももっとしてほしいと思ってしまいますね。
木下晴弘さん:「あなたの存在を愛している」と伝えること、これを「存在承認」と言います。保護者の方がお子さんに求めることはそれぞれのご家庭で違うと思います。どれがよい、わるいということはありません。ただし優先すべきは「存在承認」です。もちろんわが家でも「存在承認」は徹底的にやりました。たとえば、テストでよい点を取ると子どもは親に見せたがりますね。「パパ100点取ったよ!」と持ってきます。そんなとき「おお100点か。○○ちゃんはうれしい?○○ちゃんがうれしかったらパパもうれしい。でもな、100点取れなくても、パパはお前の存在を愛してるよ。生まれてきてくれて、ありがとう」と答えます。
母:点数がわるいときはどうされたのですか?
木下晴弘さん:たとえば40点だったらこうです。「パパごめん、40点しか取れなかった」。「そうか40点か。悲しいのか?○○ちゃんが悲しいとパパも悲しい。でもテストなんか見せなくても、パパはお前の存在を愛してるよ。生まれてくれてありがとう」。こんなことを数回続けるとどうなると思いますか?
母:ちょっと想像がつきませんが…。
木下晴弘さん:テストを見せにこなくなりました。勉強の状況がわからなくなったので夫婦で少し焦りましたが、面談に行ってみると学校ではベスト3をキープしているということでした。
母:それはすごい!親がうるさく言わなくても子どもが勉強してくれたら、こんな理想的なことはないですよね。
木下晴弘さん:わが家では親からは中学受験もとくにすすめませんでしたが、長男は小学校5年生のときに「パパ、中学校に私立と公立ってあるの?」「大学まで行こうと思ったらどっちが有利?」と聞いてきました。そこで、公教育と私教育の違いをさかのぼって江戸時代から説明しましてね。そうしたら自分で塾も志望校も選んで私立中学校に進学しました。進学に関して親はサポートしただけです。
母:「自分は自分でいい」と思えると、そういうことが起こるのですね…。
木下晴弘さん:わが家の上の娘も同じようにして育てましたけれども、やっぱり本人が選んで大学付属の私立中学に進みました。中学、高校と吹奏楽部の活動に熱中して塾には行かずにいたんですが、「私は医学の道で社会の役に立つ」と言い出して。結局医学部は学力がつり合わず一度は浪人も考えたようでした。
母:木下さんはお嬢さんが浪人することを許されたのですか?
木下晴弘さん:「そんなの好きにしたらいい。お前が生まれたときからパパは言っているはずだ。お前がどんな成績だろうが、どんな職業に就こうが、お前の存在を愛してる。どんなときでもパパとママはお前の味方だ。伝えるべきことはそれだけだと思ってる」と伝えました。
母:徹底的に「存在承認」をされたのですね。
木下晴弘さん:そうです。その後、彼女なりに考えて、看護学科の合格証を差し出しました。そのとき彼女の言った言葉に私は驚きました。「パパ、私言ったよね。医学の道で人の役に立ちたい。医学の道で役に立つには医者だけじゃなくて、薬学だっていい、看護だっていい。いま私が行ける学校は看護だから、私は看護で社会の役に立ちます」とはっきり言ったんです。小さいころからずっと「存在承認」を与えてきたことが、この状態につながったと私は思うのですが、少なくとも「存在承認」をしていなければこんな体験はできないと思います。
母:感動的なお話ですね。
木下晴弘さん:私はこの体験を大きな感動とともに味わいました。ですから、いま子育てをされている保護者、もしくはいまからされる方には、ぜひ「存在承認」に取り組んでほしいと思います。
学歴=幸せではない!教育が子どもにできることとは?
木下晴弘さん:反対に保護者がお子さんに「存在承認」を与えないとどうなるかという例をお話ししましょう。保護者に「存在承認」を与えられていないお子さんは幸福感を熟成できません。幸福感のないお子さんが学校で「人を幸せにすることが自分の幸せにつながる」と習ったとします。「そうか人に与えなければいけないんだ」と思い、実行します。実行はしますが、「自分は自分でいい」と思えていませんから、「与えるあなたってすごいよね」と言われたい、感謝されたいと思うんです。すると、相手からそうした反応がないと「感謝の一言くらい言ってよ」と不満が残りストレスがたまります。
母:いわゆる「よい子」なのでしょうけど、ストレスがたまってしまうのですね。
木下晴弘さん:はい。一方で「存在承認」を与えられずに、学校という場で行動承認と成果承認の考え方だけを知るようになると、自分が承認されるためにはよい行動をとる必要がある、もしくはよい成績を取る必要があるという考え方に陥ることがあります。仮によい成績を取らなければ愛されないと思ったお子さんはがんばって勉強しますよね。すると成果が「出る」「出ない」に分かれます。成績が上がったらハッピーエンドだと思いますか?
母:親も成績が上がったことをほめてしまうと思いますが、ハッピーエンドではないのですね。
木下晴弘さん:はい。「僕は勉強ができるから愛されるに値する人間だ。勉強ができないやつは愛されるに値しない」と考える子が現れます。最後には「あんな偏差値の低いやつと仕事なんてできない」というふうに、歪んだ優越概念を抱えた大人になる場合さえあります。
母:「存在承認」を与えられていないうえに、勉強でも成果が出ないとなると、またこじれてしまいそうですね。
木下晴弘さん:そうです。ここでカンニングをする子が出てきます。よい成績を取ることで愛されることをあきらめる子も出てきます。そういうお子さんは保護者の方の関心を勉強以外で引かざるを得ない。そうすると引きこもりになってみたり、友だちをいじめてみたりなんていう形で問題行動が現れることもあります。
母:有名大学の学生が女性を集団で暴行したなんていうニュースを見ると、どうしてがんばって勉強したのにあんなことができるのかと悲しく思っていましたけれど、もともとは「存在承認」を受けられずに成果ばかり承認されてきたことが原因ということもありそうですね。
木下晴弘さん:1人ひとりの学生を知っているわけではありませんから、はっきりとは言えませんけれども、その可能性はあると思います。
教室長:保護者の間では、よい学校に入って、よい企業に就職して、安定した生活を送ることが、幸せにつながるという感覚が根強いと思います。実際、小学生のうちから中学受験だけでなく大学受験まで考えて塾に通わせているご家庭もありますし。そういった考え方についてはどう思われますか?
木下晴弘さん:多様な価値観がありますから、そうした考え方も否定しません。ただし、学歴は幸せに直結しないということはご理解いただきたいですね。たとえば、本田宗一郎は中卒(当時は高等小学校)ですし、松下幸之助が小学校を中退しているというのは有名な話です。反対に高学歴であるのに不幸という例もみなさんご存じでしょう。学歴が高いというのは他人と比べて「包丁」の切れ味が鋭いだろうというだけで、それで人を刺してしまうなら不幸な人生になる可能性が高まる。切れない「包丁」を社会に出てから研いでまわりの人のために使う人は、どんどん幸せになる。学歴は幸せとは関係ありません。
母:学歴を重視するあまり、大切なことを見失ってはいけないということなのでしょうね。
木下晴弘さん:そうですね。人には生まれてきた以上、必ず役割があります。このお話をするとそんなスピリチュアルな話…と思われる方もいらっしゃいますが、論理的に説明できることなんです。自然というのは調和がとれていて無駄なものは一切ありません。人間も自然の一部です。ということは、人間にもムダな人間は1人もいません。ムダな人間がいないということは、1人ひとりに生まれてきた役割があるということです。
母:なるほど。1人ひとりに役割がある。うちの子はいま部活動に夢中ですけど、役割が見つかるのはいつになるかしら…。
木下晴弘さん:それは人それぞれですね。勉強を研ぎ澄ますことによって社会に役立つことができる。それを役割として生まれてきたお子さんは勉強に専念すればいいですが、そうでなければ学校で基本的な部分をおさえたうえで、その子の役割がどこにあるのかを見出してあげる必要がありますよね。そういう観点で考えたときに、小学校6年生の段階で「中学入試というハードルがクリアできないと、もう人生に先がない」というような考え方を子どもに植え付ける必要はないと思います。何度も言いますが、まず「存在承認」が何よりも大切です。
母:木下さんの講師時代の授業を受けたお子さんの中に、「存在承認」を与えられたお子さんはいらっしゃいましたか?
木下晴弘さん:私の教え子は延べ1万人ほどになりますが、私の知る限り「存在承認」を受けて育った子と思われたのは4人ほどです。失敗しようと成功しようと「自分は自分でいい」と思えるというのはものすごい強みですね。失敗を恐れませんから、目の前の困難に自ら立ち向かいます。かつ自信にあふれていますから、それをまわりに与えます。こうしたお子さんは、人生を生きていくうえで迫りくる困難に果敢に立ち向かい、まわりに愛を提供できる人間と言えます。こんな人がどうやったら不幸になりますか?そんな人が近くにいたら、応援したくなりますよね。知識や能力が多少足りなくてもまわりの人間が助けます。
母:そう考えると、「存在承認」を与えられていない場合は…。
木下晴弘さん:頭は切れてめちゃくちゃ勉強ができる。全国でも有数の難関高校から東大にトップで入りました。でも、「俺より偉いものはない」と思っていて人を見下す。こういう人間は困っていても誰にも助けてもらえません。
母:どんなに学歴が高くでも幸せとは思えませんね。
木下晴弘さん:そうなんです。人間って足らない部分を助け合って生きていく生き物でしょう。人にはそれぞれの役割があるんです。ですから、保護者のみなさんはまわりから「あいつだったら助けてやろう」と思われるお子さんに育ててください。まわりに助けてもらえるかどうか、それが成功のすべてと言っても過言ではありません。
母:木下さんのお話を伺って、子どもが生まれた日の喜びや感動を思い出した気がします。うちでも勉強のことばかり言わずに、もっと子どもに「大好きだよ」と伝えてみようと思います!
(プロフィール)
木下 晴弘(きのした はるひろ)
1965年、大阪府生まれ。塾講師として16年のキャリアでアンケート支持率95%以上という成績を誇り、多くの生徒を灘高校をはじめとする超難関校合格に導いた。その後、関西屈指の進学塾の設立、経営に役員として参加。2001年に独立し、株式会社アビリティトレーニングを設立。現在は代表取締役として、全国の教育機関で教員、保護者、生徒向けのセミナーを展開する。近年は企業向けのセミナーも人気が高い。「ココロでわかると必ず人は伸びる」(総合法令出版)、「できる子にする『賢母の力』」(PHP研究所)、「涙の数だけ大きくなれる!」(フォレスト出版)など著書多数。
株式会社アビリティトレーニング公式ホームページ
https://www.abtr.co.jp/